廣久葛本舗

 葛が秋月の名産となり、幕府への献上品となったのは江戸時代の後半です。そこに至るまでの秋月の歴史を調べていくと、思いがけない人物に遭遇しました。それは江戸時代の名君と謳われた米沢藩9代藩主・上杉鷹山(ようざん)公です。鷹山公と黒田家秋月藩8代藩主・長舒(ながのぶ)公は、ともに日向高鍋藩秋月家を祖とする叔父甥の間柄。その秋月家は、鎌倉時代から豊臣秀吉が九州統一にやって来るまで秋月を治めていた豪族の秋月氏一族です。
 二人は、同時代にそれぞれ藩主となり、長舒公は、叔父の鷹山公が米沢藩の財政再建のために実施した殖産政策にならい、その結果、秋月では葛粉の生産が成果を上げ藩の財政を潤すことになったのです。
 鎌倉時代から約400年間治めてきた秋月氏一族は、16代種実のとき豊臣秀吉に攻められ、その後、日向高鍋に移封されます。ところが、その200年後、8代藩主黒田長舒公を藩主に迎えたことによって、秋月の地に再び秋月家の血が通うことになります。その奇跡とも偶然ともいえる邂逅によって、結果的に葛が誕生することになるのですから、秋月と葛の出合いにはまさに時空を超えた歴史のロマンが見え隠れしています。

<第1章>
秋月氏一族の波乱万丈

秋月氏の祖先

 歴史には諸説あることを前提に、鎌倉時代から約400年にわたって秋月を治めた秋月氏の歴史を辿ってみることにします。
 平安時代中期、西暦939年頃、関東では平将門が、西日本では藤原純友が朝廷に対する反乱を起こします。その藤原純友を追討したのが大蔵春実(おおくらのはるざね)とされ、その恩賞として太宰府の官職と筑前の領地を拝領したという説があります。
 西暦992年には、今の秋月一帯が筥崎八幡宮の荘園となり「秋月荘」と名付けられたという記録(※1)が残っているようです。
 その大蔵氏の子孫の一人原田種雄(はらだたねかつ)は、鎌倉幕府2代将軍・源頼家のとき、その側近らの謀反の計画を知りいち早く幕府に通報したことによる恩賞として秋月荘を拝領(西暦1203年)、姓を「秋月」と改め秋月氏の始祖となったとされています。
 一説では、源平合戦の折、種雄らの一族は平家として源氏と戦ったという説もあり、そのためしばらく冷遇されていたところに謀反の動きを察して通報したことで翻意のないことが証明され、逆に厚遇されたという見方もあるようです。
 種雄は現在の古処山城に居を構え、16代種実まで385年間、天正15年豊臣秀吉の九州平定まで盛衰の歴史を繰り返すことになります。
※1)西暦992年9月20日に筑前国府宛に太宰府が出した官符に記述。

秋月由来陶版

戦国時代の秋月氏の盛衰

 時は流れて戦国時代、秋月氏にとっては浮き沈みの激しい時代となります。
 1557年、古処山城主・秋月種方は豊後の大友宗麟に攻められて戦死、落城します。これで一時、秋月氏は滅亡します。
 ところが、このとき毛利元就を頼って周防に落ち延びた嫡子の秋月種実は、その数年後、毛利の支援を受けて大友を攻め、古処山城を奪還。秋月勢は再び勢力を盛り返します。一時は大友と和睦しますが、その裏で大友軍に反旗を翻す各地の豪族や毛利勢と手を組んで再び大友軍を攻めます。が、またしても敗退(1569年頃)、ついに降伏して大友傘下に下ります。
 しかし、それでもあきらめない秋月種実は、薩摩の島津軍と激突した日向耳川の合戦で敗れた大友軍の弱みに付け込んで反旗を翻し、島津勢と手を組んで勢力を拡大。最盛期には、豊後の大友、佐賀の龍造寺、薩摩の島津と肩を並べるほどで、北部九州に36万石の広大な所領を持つ有力大名となりました。

秋月を去り、日向高鍋へ

 北部九州の雄となった秋月種実の前に、大軍勢を率いて天下統一を目指す豊臣秀吉が現れます。種実は島津と盟約を結んでいたこともあり、秀吉を迎え撃つ決意をします。このとき一人の家臣が、勝ち目のない無用な戦は止めるよう降伏を勧めるのですが聞き入れられず、自らの一族が皆切腹して種実を諌めます。現在も秋月に残る「切腹岩」が、その史実を伝えています。
 戦に勝てると信じていた種実でしたが、一夜にして現れた城や秀吉軍の軍備の華やかさに圧倒され、あっけなく降伏します。秀吉の前に嫡子・種長とともに墨染衣で平伏した種実は、天下の名器と謳われた肩衝茶入「楢柴」を献上したことにより延命を許されたとされています。
 秀吉の命により島津討伐の先陣を言い渡された種実は、その後、日向国財部(高鍋)500町(3万石)へと領地替えを命じられました。いよいよ秋月を離れるとき「知行は十石でもよいから秋月に留まりたい」と秋月を離れなければならない己の身の上を嘆いたとされています。
 天正15年(1587)、鎌倉時代初期から385年この地を治めた秋月家は、こうした理由でこの地から離れたのです。

腹切り岩と太閤腰掛け岩

秋月氏の運命を分けた関ヶ原の合戦

 なかなか葛の話には行き着きませんが、なんと天下分け目の関ヶ原の合戦が、なぜか秋月氏の運命を左右することになります。
 高鍋に移封されて十数年後・・・場面は「関ヶ原の合戦」。徳川家康が勝利したこの合戦では、秋月種実は豊臣側についていました。そこで敗北した将ですから腹を切るなり、領地を没収されるなり、何らかの責を負うところですが、秀吉から拝領した日向の領地は没収されることなく、その後も高鍋藩3万石の大名として徳川の世を送っています。なぜか・・・一説によれば、種実は東軍(家康軍)勝利の報を聞くや否やすぐさま寝返り、自らの陣にいた西軍の将を討ち籠城していた城を明け渡したというのです。その功によって家も所領も安堵されたのではないかと伝えられています。
 かつては平家の一族だった秋月氏の祖先は源氏の世になると源氏方につき、戦国時代、一度は大友軍に破れ傘下に降ったときも機を見て反旗を翻し、そして関ヶ原の合戦では急転直下の判断で生き延びる策を見出し、その機を見て敏なる判断は秋月氏の血筋なのでしょうか。こうして秋月氏の血は途絶えることなく歴史の巡り合わせで再び筑前秋月に戻ることになるのです。

腹切り岩と太閤腰掛け岩

往時の風情を偲ばせる「長屋門」。石段を上れば歴史の足音が聞こえる

<第2章>
黒田家秋月藩8代藩主・長舒公の登場

200年振りに秋月の地に

 江戸時代、筑前は黒田長政公の所領となります。元和9年(1623)、三男長興が初代藩主となり知行高5万石、福岡藩の支藩として黒田家秋月藩が誕生します。
 その7代藩主・長堅公が、嗣子のないまま若死にしたため後継問題が勃発、一時は藩の閉鎖も検討されました。そのとき後継者として白羽の矢が立ったのが、高鍋藩7代藩主・秋月種茂公の二男・長舒でした。長舒公の父・秋月種茂の母・春姫が、黒田家秋月藩4代藩主・黒田長貞公の娘であったことから、天明5年(1785)21歳のとき黒田家秋月藩8代藩主として迎えられました。
 ここに、黒田家・秋月家双方の血をひく跡継ぎが誕生したことで、この秋月の地に、秋月種実以来、実に200年振りに秋月家の血を引く者が国主として戻ってきたのです。以後、廃藩置県まで12代246年間、黒田家秋月藩は存続します。
 これも歴史の偶然と言わざるを得ませんが、長舒公の父・種茂公は、当時の米沢藩9代藩主・上杉鷹山公の実兄、即ち、長舒公の叔父は江戸時代の名君とうたわれた鷹山公でした。鷹山公を崇敬していた若い藩主にとってはたいへん幸運なことだったと思われます。

天明の大飢饉と上杉鷹山公

 ここで少し、上杉鷹山公について話しましょう。
 江戸時代屈指の名君として知られる上杉鷹山公が米沢藩9代藩主となったのは、明和4年(1767)、17歳のとき。つまり長舒公が秋月藩主になる18年も前のことです。当時の米沢藩は莫大な借財をかかえ、尚かつ政治腐敗が進み、破綻寸前の状況。そこで鷹山公は、徹底した倹約令と殖産興業政策等による改革を推進します。自ら一汁一菜を常とし、普段着は木綿、奥女中の数を減らすなど質素倹約に努め、桑の栽培と養蚕を奨励し武士の婦子女に内職として機織りを習得させて絹を織らせるなど、大胆な発想で改革を行いました。その米沢織は、その後全国的に知られる特産品になります。その他、製塩、製紙、製陶などの産業も興したと言われます。
 天明3年(1783)、東北地方を中心に日本の近世では最大の飢饉とされる「天明の大飢饉」に見舞われます。米の代用食の必要性を重視した鷹山公は、藩医に食用となる動植物の研究を命じ、年月をかけてその成果をまとめさせ享和2年(1802)、飢餓救済の手引書『かてもの(糧物=主食である穀物とともに炊き合わせ、食糧不足に陥った際に節約するための代用食となる食物)』を藩内に刊行したと言われます。

上杉鷹山像と石碑

『かてもの』にあった葛の記述

『かてもの』には、草木果実約80数種類の特徴並びに調理法、さらに保存法や味噌の製造法、魚や肉の調理法などについても詳しく記されていました。そこに「くず」についての記述があり『根を掘り取り、つき砕いて出た汁を集め、水飛を10回以上繰り返し、底に沈んだ粉の塊を団子にして食べる』という内容が記されていたとされています。
 長舒公が藩主になった当時は、まだ天明の大飢饉の真っ只中。秋月藩では年貢が減少し、藩の財政は厳しい状況にあったと思われます。そこで長舒公は、鷹山公にならい地場産品を特産品に育てるという殖産興業政策を推し進めます。叔父・甥の仲であった二人ですから、その交流のなかで『かてもの』に関する情報も得ていたのではないかと推測されます。
 『かてもの』には、葛のデンプンを取り出す方法の他にもカタクリやワラビなどのデンプン抽出方や調理の仕方などが記されています。葛については薬としてではなく、“精製した葛デンプンを食べる”ために記されているところが注目に値します。また、葛は広く日本全国に分布していますから、鷹山公自らが葛粉製造に取り組むところですが、冷涼な気候の東北地方では葛の根が太りにくく、また、晩秋には雪が積もるため掘り起こすのは至難の業。それよりも米の作付面積の広い地方ですから米の品種改良などに力を入れる方が藩として得策だったと考えられます。

現在の秋月

  一方、九州秋月は山裾にあるため作付面積が狭く、温暖な気候を生かした殖産を考えていくことが得策。両者とも藩を預かる身の上であり日向高鍋藩を祖とする二人の間柄ですから、藩の財政再建についても何らかの情報交換を行なっていた可能性は大いにあったのではないでしょうか。
 当時は全国の諸藩も食料不足だったと思われますので、鷹山の刊行した『かてもの』を入手したであろう諸藩は、どの藩もそこに記された内容に関心を寄せていたと思われます。また、葛については昔から民間薬として各地で作られていたわけですから、特段、秋月だけにいい環境があったわけではないと考えられません。それどころか、秋月には本葛の作り方を知る人間などいなかったはずです。
 では、なぜ長舒公が葛粉づくりを奨励したのでしょうか。これは推測の域を出ませんが、長舒公が鷹山公との交流のなかで、山地が多くを占める秋月藩の内情に照らした忠言を聞き、賢明に判断したのではないでしょうか。そうした長舒公の意思が代々の藩主に受け継がれ、また、初代・髙木久助の忠心もあって秋月に葛の文化が花開いたのではないでしょうか。

鷹山公の名言、「為せば成る・・・」の心

 冒頭から秋月家一族の歴史を手繰ってきた意味がここに来てご理解いただけたのではないでしょうか。数多の修羅場をくぐり、土壇場で九死に一生を得て再起を果たし、一度は故郷秋月を追われながら、その血は200年後に再び秋月に戻ります。上杉鷹山公という名君の教えに導かれ、秋月藩は殖産興業政策の成果を上げることができたと言っても過言ではないでしょう。
 もう一つ、日本中を飢餓で苦しめた「天明の大飢饉」により、鷹山公が飢饉の教訓から『かてもの』を刊行、救荒食として領民に自然の動植物の調理の知恵を授け、その中に「くず」の記述があったことも、もしかしたら一つのきっかけになったのではないでしょうか。
 秋月藩においては、藩の御用商人で類まれな才覚を持った初代髙木久助の尽力もあって本葛の生産が成果を上げ、秋月藩よりその品質が認められついには幕府への献上品となっていくわけです。(詳しくは「代々久助の系譜」)
 長舒公は、葛の他にも川苔・茶・桑・楮・櫨・木蝋・製紙・養蚕・びん付油など多岐にわたる産業を奨励し、藩財政の立直しを図りましたが、志半ばの文化4年(1807)逝去。
 一方、鷹山公は天明5年(1785)に藩主の座を譲って隠居しますが、藩主の後見人として実質的に藩政を指導し、文政5年(1822年)72歳でこの世を去りました。

 「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」

 これは鷹山公の有名な言葉です。苦難を乗り切る強い意志とともに、まるで秋月家の波瀾万丈をうたっているようにも受け取れます。

上杉家の廟所

上杉鷹山とジョン・F・ケネディ

 第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディに「もっとも尊敬する日本の政治家は?」という質問をしたときに彼は、「上杉鷹山」と答えましたが、それを質問した日本人記者は、それが誰なのかわからなかったと伝えられていました。
 2014年1月に放送されたBS歴史館「江戸のスーパー変革者 上杉鷹山」で、当時のキャロライン・ケネディ駐日米国大使が講演で語った言葉を紹介しています。それによると、自ら率先して行なった質素倹約の生活や武士も農民も階級に縛られることなく自らが相互扶助の心を持って社会奉仕するという精神を説いた上杉鷹山公を、故・ケネディ元大統領はたいへん尊敬していたことを明らかにしました。
 故・ケネディ元大統領が就任式で呼びかけた「わが同胞のアメリカ人よ、国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国家のために何ができるかを問おうではないか」という言葉の中には、崩壊寸前の逼迫する藩の財政再建に迫られていた鷹山公が領民に向かって呼びかけた「三助」の精神、即ち・・・ 故・ケネディ元大統領が就任式で呼びかけた「わが同胞のアメリカ人よ、国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国家のために何ができるかを問おうではないか」という言葉の中には、崩壊寸前の逼迫する藩の財政再建に迫られていた鷹山公が領民に向かって呼びかけた「三助」の精神、即ち・・・。
 1 自ら助ける。すなわち「自助」
 2 互いに近隣社会が助け合う。「互助」
 3 藩政府が手を伸ばす。「扶助」
これと同じ思いが語られているのではないかと推測する人もいるようです。