エピソード① 推理小説家 髙木彬光さんとのご縁
1990年代のはじめの頃、現在の廣久秋月本店に、映画化されテレビドラマでも話題となった『白昼の死角』の著者、推理小説作家の髙木彬光氏が訪ねてきたことがあります。
彬光氏の実家は青森で開業医を営む旧家。たまたま何かの折に目にした髙木久助の家の家紋「角切押切重扇(すみきり おしきり かさねおおぎ)」が、ご自身の実家と同じだったことから、それを確かめるべくわざわざ秋月に足を運んだのだそうです。
何か手掛かりがないかと古文書などを調べていくうちに家系図に記されていた先祖の戒名が決め手となり、自身がずっと探し求めていたルーツを突き止めることができました。
また、本家が今も久助葛を一筋につくり続けていることにいたく感激されていました。
エピソード② 髙木家家紋の由来とは?
髙木家に代々伝わる家紋、「角切押切重扇(すみきり おしきり かさねおおぎ)」は、どの家紋帳にも載っていない意匠と言われます。
その由来は、江戸時代、黒田家秋月藩の御用商人としてお城に出入りしていたとき、葛粉の出来を賞賛した藩主が、広げた2本の扇を重ね「これをそなたの家紋にするがよい」と仰せになり、それを図案化したものだと伝えられています。
作家の髙木彬光氏が家紋を手掛かりにルーツを探し当てたように、他にはない唯一無二の家紋ですから、同じ家紋を持つ方が訪れては昔話をされていく方がときどきいらっしゃいます。
エピソード③ 髙木家を支えた葛職人
当時の時代背景を考えると、葛づくりの職人を和歌山から遠い秋月まで呼び寄せることなど容易にできることではありません。その点から考えても、秋月藩の何らかの後押しがあったのではないかと推測されます。
記録には「和助さん」という名前で、その後、ずっと髙木家の厚遇の下で暮らし、亡くなった後も髙木家の墓所の敷地内に埋葬してお墓を立て、今日に至るまで髙木家では先祖同様に供養しています。
エピソード④ 昭和天皇即位の礼の献納品
大正15(1926)年12月25日に大正天皇が崩御して元号が「昭和」に改まり、昭和3年11月10日に昭和天皇の即位の礼が、11月14日~15日に大嘗祭が行われました。主基地方が福岡県に決まり、献上する米は当時の早良郡脇山村の米が選ばれました。
粒よりの作業においては胴割れしたものや砕けたものなどは取り除き、一粒、一粒、精査して、きれいな米粒だけを選び出したとされ、その作業には9日間で延べ2000人以上が従事したそうです。現在の福岡市早良区脇山(脇山中央公園内)には、当時の主基斎田跡地に大嘗祭主基斎田記念碑が建っています。
当時、天皇陛下は神として奉られていますから、久助葛を献上する際も、葛づくりに使う水を清めるため、地元の消防団員数十名が集合し全員で使用する井戸の水を抜き、井戸さらいをして清め神聖な水としました。
エピソード⑤ 葛湯誕生秘話
現在の葛湯の包装と5個入り袋は、9代目夫婦が旅行に行った先のお土産店でたまたま見かけたものからヒントを得て考案したものです。
それまで売っていた落雁のように固めなくてもいい方法はないか、箱入りではなく何かいい方法はないかとずっと思案していたところに、小さい下げ袋に入った菓子とその包装の仕方を見て、「これなら」と閃いたのです。
当初は大きな透明フィルムを買ってきて、それを一袋サイズに切り分けてテープを使って袋状にし、そこに葛湯を入れたものを販売していました。全て手作業だったため、家族全員でやっても夜中までかかるほどでした。
当時、多くの葛屋さんは業務用がメインで小売などには全く眼もくれず、金額の小さい小売などをやっていたらいつか潰れると揶揄し、こちらの商売を横目で見ていました。ところが、時代は変わり現在はほとんどが小売をしています。しかし、業務用の延長なのでしょうか、甘藷でんぷんを混ぜたものを「本葛」をうたい販売しているのは残念なことです。